こんにちは。hokutoです。
学校教育の世界には「調べ学習」という言葉があります。文字通り「調べものをして学ぶ」ということです。僕が小学校の頃は本で調べるのが当たり前でしたが、近年はネットでの調べものも一般的になってきたようです。
もっとも、本に比べてネットの情報の量や質はバラツキがありますから、それをうまく活かすメディアリテラシーが問われます。ブラウジングの基本操作のスキルも必要とされます。そのため最初は、教師が指定したサイト内で調べる、あるいはフィルタリングで閲覧サイトを制限する、という方法がとられているようです。中学校、高校となると調べ学習自体の機会は減るものの、Googleなどを使ってオープンに検索する活動も授業に取り入れているようです。
ググレカスはなくなる?
検索を学校教育で普通にやるようになると、家庭のネット環境や自身の興味関心にかかわらず、検索の経験が学生の中に蓄積されていきます。検索の具体的な手順と、それに対して得られるものの量や質を感覚的に理解するようになり、検索に対する抵抗も少なくなると思われます。僕のように「ちょっとしたことを頻繁に検索する」人も増えるんじゃないでしょうか。
では、これで「ググレカス」なやり取りも減るのでしょうか。僕は、話はそう簡単でもないと思っています。なぜか。それは、ググレカス!が指し示すようなレベルの検索を授業で扱える教師の数は、まだまだ多くないのが実情だろうと思うからです。
一歩先の検索力
Wikipediaで芸能人の名前を入れるような検索は、電子辞書で言葉を調べるのと同じように、たいてい1回の検索で必要な情報が得られます。明日の天気が知りたくてGoogleで「天気予報」を検索をすると、まぁ天気予報サイトが上位に出てくるでしょうから、そこで天気を調べられます。こうしたものも立派な検索ですが、ググレカス!と言われるようなケースは、もう少し高度な検索を必要とするものが多いでしょう。しかし、そうした検索を普段からしている教師はあまりいないようです。自身が普段していなければ、やり方もよくわからないし、わからないことは教えようがないと言えるでしょう。
意味を知りたい言葉があるとき、単にその言葉をキーワードに検索するんじゃなく「とは」という言葉を付けると良い、という検索術がありますよね。それを知り合いに教えると「ほんとだ、すごいねー!」という反応が返ってきます。でも私としては、それを便利なテクニックとして丸覚えするのではなく、なぜ「とは」を付けると良いのかに意識が向いてほしいなと思うのです。それは、検索がWeb上のテキストを対象に言葉のマッチングを行う行為であり、対象の意味が説明される場合に「とは」という言葉が使われることが多い、という仮説に基づくものですよね。
意味を理解していれば、他の検索テクニックに応用もできますし、検索自体の学問的な面白さも実感するかもしれません。検索を学ぶというのは、そういうことではないかと思いますし、理解とテクニックの両方を含めたものを、私は「検索力」と呼んでいます。
検索テクニックから学べることは多いと思うのですが、上手い下手に関わらず、他人が検索をする過程を見る機会は日常なかなかないものです。だから自分の検索力に無頓着になりがちで、検索力が低いがゆえに見えていない世界があることにも気付きにくいのではないでしょうか。
検索力育成の場としての学校教育
学校教育の場は、教師がいて、ともに学ぶ仲間がいる場です。だから検索力を育てるには重要な場だと思うのですが、教師が検索の重要性を理解していなかったり、教師自身に検索力がなくて教えられないと、学校で積める検索経験に多くは期待できません。結果、学校外での検索経験の質が、検索力の大きな個人差となって表れてくるように思います。
ネットにある情報を適切に得ていく最大の手段が検索である現状を考えると、検索力を身につけることは重要な教育目標になりえると私は考えています。確かに、ググレカス!と言われるケースの全てがこうした検索力のなさと結びつくわけではないでしょう。現に私も、学校教育で検索力をつけたわけではありません。しかし、日頃のネット利用で誰もが検索力をつけられるかというと、それも疑問です。
もちろん、ネット検索を教育としてどの程度重要視するかの問題はあります。これだけネットが身近になり、ネットでの情報収集の現時点での最大の手段が検索で、それが今後しばらくは変わらないと考えると、学校教育でもきちんと扱うべきではないかと個人的には思います。学校の教育現場がどう変わり、ネット利用者の言動がどう変わっていくか。僕の関心は今そこにあります。
検索能力は、難しいところですよね。
僕は実は?学校教育で検索術を身につけたクチです。とはいっても習ったのではなく論文執筆のための資料を探すのに検索しまくって身についただけなんですけれど。
その経験を思い出してみるに、一番大事なのは「簡単には見つからない情報」を、「見つかるまで諦めず探してみる」経験だと思います。その点、高校まででそういう機会を作るのはちょっと難しいかもしれません。そもそも探す対象がはっきりしていないと検索もなにもないのですが、高校までだと見つかりにくい情報を扱うこと自体ほとんどありませんからね。
なので、実際のところ一番ネックになるのは指導者の問題設定能力であるような気がします(もちろん検索力あっての話ですが)。東北地方の公共工事におけるアスファルト価格の相場の推移とか、中高生でも理解できるけど簡単には見つからない課題をどう柔軟に、生徒のレベルに合わせて設定できるか。
簡単ではないでしょうが、議論があってもいいんじゃないでしょうか。
「諦めずに探す」という経験は重要ですよね。自分の経験から言っても、自分で試行錯誤してはじめて探す力が身についてくるのだと思います。その機会を設定する教師の能力が問われるところでしょう。
次回の第4回でも書きますが、「学習者にいかに学んでもらうか」を考えた課題設定ができていない教師は少なくない気がします。それは確かに難しいことですが、教師自身の自覚と周囲のサポートによって、なんとか教育現場の形骸化を防いでもらいたい。もちろん、自分もやれることはしないと、なのですが。
こんにちは。
「検索力」って、結局のところ言葉遊びの延長上にあるものだと思うんです。
よく、連想ゲームでそのモノの名前・名称をずばり言わず、それを表現する(その名称を導き出すヒントとなる)言葉を並べて相手にそのモノの名称を答えさせるという遊びがありますが、それに近いのかなぁ~と。ヒントとなる言葉がずばり、検索キーワードのように思います。
たとえば、「リンゴ」という名称を導き出すのに
一人は「くだもの」「赤い」「丸い」「甘い」といい、もう一人は「くだもの」「丸い」「甘酸っぱい」「青い」という。
ここで共通する言葉をヒントに回答者は答える。
「くだもの」で「丸い」形で「甘い・甘酸っぱい」もので「赤or青い」食べ物。。。
この重なりが大きければ大きいほどそのモノの輪郭をはっきりさせ、当事者間の共通認識になっていくのかな?
検索をする側は、いかにこの重なりの大きい表現の言葉を知っているかに関わってくるのかと。
「検索力」のある人って、きっと「表現力」のある人なんだと思いました。
なるほどー。表現力っていうと、一見詩的で個人的な言葉遣いを連想してしまいますけど、「重なりの大きい表現の言葉を知っているか」という言葉の最大公約数を知っているかということですね。
僕はそういうのもコミュニケーション スキルだと思うんですよね。自分だけでなく他人の思考や言葉に思いを巡らせることができるという意味で。その意味でも、学校教育でやる価値はあると思います。