学び2.0でいこう! – 第5回 「知っていること」の価値

前回は、コピペレポートを提出する学生に焦点を当てましたが、検索あるいはITの日常化の影響を受けているのは、なにも学習者だけではありません。教師もまた、変わってきている、あるいは変わることを迫られてきているのです。

教師のコンピューター観

僕が大学にいた頃、受講していた授業に、頑なにコンピューター不要論を唱える大学院生がいました。僕が「コンピューターは学びにうまく使える」という話をすると「コンピューターはダメです!だって紙の教科書と違って、濡れたら壊れます!」という答えを返す人でした。後になってその真意を探ったところ、「コンピューターが自分の代わりに授業をするようになって、自分の仕事が奪われるのが怖い」という気持ちがあるとのことでした。

これは極端なケースにしても「授業の間が持たなくなるからコンピューターは使わない」という教師は結構います。教師のすることがなくなるじゃないかと。教育実践の全てがコンピューターに置き換えられることはないと僕は思いますが、コンピューターやネットの得体のしれなさが生む誤解も手伝って、コンピューターと教育の関係を真剣に考える教師はまだまだ少ないように思います。

教師の価値とは何か

教師が与えた教科書で学習者は学び、答えは教師が知っている。教室という空間に情報の全てがある(と考える)のがこれまでの授業でした。それがこれからは、学習者はネットという、教室の外の世界から情報を自ら引っ張り出せる時代です。教室という空間は半分オープンになりつつあります。

知識を学習者に注入することが教育、学習者より教師が物知りで当たり前。そんな教育観で今までやってきた教師にしてみれば、この新しい時代は脅威でしょう。知識ならネットで手に入り、学習者が教師より詳しい状況だって十分起こりえます。学生に「先生、そんなのも知らないの?」と言われたらどうでしょう。自身の「教師としての価値やプライド」を「学習者より知っていること」に求めていたとしたら、これはものすごく辛い状況です。そして、そういう教師は決して少なくないのではないかと思います。

時代の流れには逆らえない。いやむしろ、時代が教育の問題を明らかにしたのだ。そう考えて、教師は教育観を転換しなければならないようにう思います。それは決してたやすいことではないでしょう。でも学習者は先に変わり始めているのです。いつまでも騙せはしないのです。

「知っていること」をどう捉えるか

「博覧強記」という言葉があります。広く物事を見知ってよく覚えていること、というような意味です。ネットで何でも検索できる現代においては、物事を知っている、覚えている必要性が格段に下がったという意見もあります。そんな時代では、博覧強記な人間の価値は下がるのでしょうか。

僕の答えはノーです。そこにある情報は、それだけでは価値を生みません。それをいかなる時に拾い上げ、いかなるものと結びつけ、いかなる形に仕立てるのか。そこには知の活用とか編集といったスキルが必要です。これまで博覧強記と呼ばれて評価されてきた人の多くは、単に知っているだけでなく、そうしたスキルも持ち合わせていたのではないでしょうか。

「知っていること」や「覚えていること」の縛りから開放され、その知識をいかに取り扱うかにプロとしてのスキルを見せる。それが教師の専門性ではないかと思います。知の取り扱いは、決して表面的な検索テクニックだけで埋めることはできません。知らないことは、学習者とともに学べばいいのです。問題はその次の段階です。

みなさんは、自分の専門性、知っていることについて、どんな考えを持っていますか。知っていればよいとか、検索できればよいと言えることと、そうでないことにどんな違いがあると考えていますか。秋の夜長に、そんなことを考えてみるのもいいかもしれません。

コメント / トラックバック 5 件

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  1. furusho より:

    僕は昔暗記を馬鹿にしていたのですが、受験のときに日本史の年号を全部覚えて考えが変わりました。年号を暗記しているとどんな事件がその時代に起こったのか横断的に見ることができるようになって、思考の幅がおおきく広がったからです。

    プログラマーだって、覚えている関数やライブラリの数、さらにはデザインパターンの数で生産性に極めて大きな差がつきます。それらは全て検索ですぐに見つかる内容ですが、いちいち探していたのでは効率が悪いし、より重要な点として知識として頭の中に無いものは思考の道具になりません。

    なので今はとりあえず知っておくべきことは少しでも多く知っておいた方がいいと思っています。

    #どうでもいいですが大抵のPCは電源さえ切っておけば(HDD以外は)水洗いできるので多分教科書より水につよいでしょう。

  2. hokuto より:

    僕も暗記はナメてましたね。自分が苦手なことだったというのが大きいですが。でも確かに、ある程度覚えてからじゃないと次のステップに行けない、というものはありますよね。

    経験上、豊かで深い話をしてくれる人は良くものを知っているし、検索力がある人は知識も豊かなんですよね。思考の道具、考える基礎としての知識があるから、新しいものを積み上げていけるし、既知のこととの関連性も見つけていけるのだと思います。

    教師としては、そういう暗記の先にあるものを、学習者に感じてもらえるような学びをデザインできるといいですね。簡単なことではないと思いますけど。

  3. ふるしょう より:

    そもそも学校の先生や学習指導要領を決める官僚がその領域を知っていないことが多い(っぽい)ことが、非常に大きな問題だと思っています。

    特に感じるのが高校までの物理。

    高校範囲の物理って、一言であらわすとそのほとんどが「連続性を前提にした古典物理の世界」です。だから力学も電磁気学も扱っている対象は違えど出てくる式は同じ二次微分方程式。

    ちゃんと理解すればすっと頭に入るのに、その領域を知らないがゆえに理解ができず、結果、中途半端に教科書記載事項を削ってかえってわかりにくくしてしまっている。

    暗記を暗記で終らせてしまっている人には、そうならない方法なんて教えようがない。

    そのジレンマをどう解決するかですね。

  4. 茶々○ より:

    こんばんは。どうもです。
    私の場合、暗記は得意な暗記と苦手な暗記がありましたね。
    というのも、ちょっと変わった暗記方法だったので、コレにマッチしたものだったら恐ろしいほど覚えられるのにマッチてないとまるでダメでした。
    どういうものかというと、ものすごく簡単なんですが
    1~2分程度、開いたテキストをただじっと見つめているとその映像を記憶できているというものです。
    逆に語呂合わせは覚えられなかったです。

    なぜ、そのような暗記の仕方になったのかは不明。いつのまにか、その暗記方法が身についていて…
    今でも本に書かれていたであろう内容を思い出す時には、必ずその本の映像が頭の中に出現してペラペラとページをめくっています。
    で、探しているものが見つかるとその部分だけがギュンと拡大されて脳裏に出現します。。。

    なんだか、やっぱり変わっていますよね。
    なんで、そんな覚え方しちゃったんだろう???

  5. hokuto より:

    橋本さんではありませんが、教育内容を決める人がその内容をちゃんと理解していないんじゃないか?と思うことは多々ありますね。情報教育では、現場教師の多くも理解していない気がします。僕はその現状を知ってキレたことが、情報教育の世界に関わるようになった理由だったりします。

    高校の物理の思い出は「自分は化学が専門だが人が足りないのでこのクラスの物理を担当します」と言う先生が、教科書の最初の章の例題が自力で解けない人だったこと。そんなんで授業やっていいのかっていう。ほんと「これはひどい」タグをつけてあげたい(笑)

    レイアウトで覚える、みたいなことは僕も経験したことがありますよ。小学生の頃、買ってもらったコロコロコミックを繰り返し読むうちに、記事内の写真や文章の位置はおろか、記事の掲載順や広告の挿入位置まで覚えてしまって頭の中で1冊丸ごと再生できてました。負けず劣らず変な子どもですね。

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